竹久みちと岡田茂の三越事件(21億円贋作)の経緯・真相や現在、若い頃やデヴィ夫人との関係は?

「三越事件」をご存知でしょうか?

1982年に発生した、百貨店の三越に

係わる一連の事件のことで、この事件で

社長解任劇に発展までしました。

 

その裏側にいたと言われるのが、

社長・岡田茂氏の愛人の竹久みち氏。

「三越の女帝」と呼ばれるほどになった

発言力を持った人物です。

 

今回はそんな三越事件の経緯や裏側、

それに関わった竹久みち氏や岡田茂氏の

人物について見ていきたいと思います。

三越事件・21億円贋作美術品の経緯は?

岡田天皇による独裁体制

三越事件(みつこしじけん)とは、

1982年に発生した、老舗百貨店の

三越に係わる一連の事件の総称です。

名門百貨店を舞台にした不祥事は、

社長解任劇に発展し世間を賑わせました。

 

1972年に社長に就任した岡田茂氏は

自身に批判的な幹部を次々と左遷し

独裁体制を確立させていきます。

 

岡田氏は不明瞭な経理によって会社を

私物化させていき、ライバルとされていた

常務の坂倉芳明氏を追放します。

 

副社長のポストは空席にし、能力のある

役員などもパージ(左遷)するなどして

独裁体制を構築していきました。

(こんな状態が続けば組織が弱体化し

腐るのがわからなかったのか)

 

岡田氏はジャーナリストの恩田貢から

紹介された竹久みち氏を愛人として寵愛し

竹久氏は岡田社長を背景にして、

三越内で発言力を強め「三越の女帝」と

呼ばれるようになりました。

岡田体制の崩壊

1982年6月17日に、納入業者に対して

三越の商品や日本映画『燃える秋』の

映画前売券等の購入を要請を行い、

協賛金や社員派遣を要請、催し物への

費用負担の要請を行ったとして、

三越は独占禁止法違反の審決を受けます。

 

また、同じ年の8月に三越日本橋本店で

開催された「古代ペルシア秘宝展」の

展示品47点の大半が「贋作」だと判明。

総額21億円もの贋作事件となりました。

 

さらには、竹久氏が経営する

「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を

与えていたり、自宅の改修費用に会社の

資金を流用していたりした問題まで発覚。

 

これらの不祥事を経て社外取締役の

小山五郎氏は、岡田氏に辞任を勧告するも

岡田氏はこれを強く拒否します。

その後、三越内部の反岡田派は、岡田氏の

社長追い落とし工作を加速させます。

 

1982年9月22日、取締役会で岡田氏は

腹心の杉田忠義専務に議長を交代するも、

杉田氏は岡田の社長職と代表権を解く

解任動議を発議します。

 

腹心の部下に裏切られた岡田氏ですが、

この動議が可決し、非常勤取締役に

降格となります。この時に岡田氏が

発した「なぜだ!」という言葉は

この年の流行語ともなりました。

 

後日、岡田氏と竹久氏は特別背任容疑で

東京地検特捜部に逮捕されました。

なお、高杉良氏の『王国の崩壊』は

岡田氏をモデルとした作品になっています。

竹久みち(たけひさみち)のWiki経歴・本名・プロフィール

  • 名前:竹久みち(たけひさみち)
  • 本名:小島 美知子(こじま みちこ)
  • 生年月日:1930年
  • 学歴:旧制共立女子専門学校生活科(現:共立女子大学)

 

「三越の女帝」と言われた竹久みちさん。

竹久みちは本名ではなく、ペンネームで、

「竹久」は竹久夢二にあやかって

命名したものなんだとか。

 

旧制共立女子専門学校生活科を卒業後、

文化学院デザイン科に進まれます。

竹久氏は在学時から銀座で

「ヌーベル・アクセサリー研究所」を

立ち上げるなどしています。

 

上野松坂屋、銀座松坂屋などと取引を

するほどの才能と行動力があり、

メディアにも出演するなど、精力的に

活動をしていました。

 

また、立ち上げたアクセサリー研究所は

「竹久みちアクセサリーデザインスクール」

という日本初のアクセサリーデザイナーの

養成学校に生まれ変わらせています。

 

私生活では1952年に結婚し、長女を出産。

1957年に離婚も経験しています。

竹久みちと岡田茂の出会いや愛人になる切っ掛け・馴れ初め、三越の女帝になった経緯は?

1963年、三越の宣伝部長の岡田茂氏と

ジャーナリストの恩田貢氏の紹介で

出会い、竹久氏は岡田市の将来性を見込み

彼に接近していきます。

 

1972年に岡田氏が社長に就任すると

竹久氏の会社「オリエント交易」は

三越の大口納入業者となります。

 

岡田社長とは愛人関係でしたが、

これは公然の秘密とされていました。

竹久氏は岡田氏をバックに三越内で

発言力を拡大していきます。

 

というのも、竹久氏が気に入らない社員は

岡田氏に告げ口され、左遷されるため、

竹久氏に逆らえなくなったためです。

三越の社内人事にも介入するようになり、

三越の女帝と呼ばれるようになりました。

 

その影響力は岡田氏解任まで続きましたが

解任後は影響力はなくなりました

竹久みちの逮捕のその後や現在は?

三越事件により岡田とともに逮捕され、

特別背任罪と所得税法違反の容疑で

起訴された竹久氏。逮捕後には手記を

出版したりもしています。

ふりむかない私―"女帝"といわれた私の真実

 

最高裁判所まで争いましたが、

1997年10月に最高裁で上告が棄却され、

懲役2年6月・罰金6000万円の実刑判決が

確定し栃木刑務所に収監されました。

 

1年6ヶ月の服役後に出所。

「クイーンズオーキッド株式会社」を

設立しオリジナルアクセサリー創作や

フラワーアレンジを行っていました。

 

2008年には大動脈瘤を患っており、

2009年7月24日午後1時頃に、

東京都内の病院にて死去されています。

没年79でした。

竹久みちとデヴィ夫人の関係は?出会いのキッカケは?

竹久氏が女帝として君臨していた頃、

六本木に「クレオパトラ」という

高級クラブをオープンさせています。

 

財界人、著名人などのVIPのための

お店だったのですが、お客さんとして

デヴィ夫人もいたとのことです。

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