こんにちは、ぽこぱぱです。
終戦記念日付近になると戦争に関する
特集番組が増えてきますね。
今回取り上げるのは、太平洋戦争中に
世界で唯一、アメリカ本土を爆撃した
日本人・藤田信雄(ふじたのぶお)さんです。
歴史上初めてアメリカ本土に爆撃を
行なったにもかかわらず、その話は戦後も
大きく語られることはありませんでした。
一体どんな経緯だったのでしょうか。
目次
藤田信雄(ふじたのぶお)のWiki経歴・プロフィール
- 名前:藤田信雄 (ふじたのぶお)
- 生年月日:1911年10月
- 没年:1997年9月30日
- 出身:豊後高田市
- 軍属:大日本帝国海軍
- 軍歴:1932年 - 1945年
- 階級(最終):海軍中尉
史上唯一アメリカ本土を爆撃した
藤田信雄さん。1932年に21歳の時に
帝国海軍に入隊し、1933年には
パイロットとなりました。
真珠湾攻撃の際には日本海軍所属の
伊25に乗っており、他3の潜水艦と共に
オアフ島の約200キロ北のラインを
警戒していました。
藤田さんの零式小型水上偵察機は
機体の不調により、計画されていた
偵察任務には参加ができませんでした。
真珠湾攻撃の後、伊25は他の潜水艦と
共に太平洋岸北西部の警戒行動を実施。
アメリカの船舶の攻撃、オーストラリアや
ニュージーランドでの偵察飛行等を行い、
基地へと帰投しています。
史上初のアメリカ合衆国本土への爆撃
1942年4月21日、藤田はさんは軍令部に
呼び出され、単独でのオレゴン山中への
空爆命令を受けます。これは藤田さんの
操縦の腕を買われたものでした。
1942年8月15日、藤田さんは横須賀から
伊25でアメリカへと向かいました。
藤田さんはこの作戦で生還する自信がなく
出発前日の8月14日には家族に宛てた
遺言書を残しています。
9月9日、藤田さんは奥田兵曹を乗せ
2個の焼夷弾を積み、飛び立ちます。
森林火災を狙った爆撃でしたが、
その前夜に雨が降っていたため森林は
湿っており、鎮火されてしまいます。
藤田さんの機体はアメリカに発見され
攻撃を受けるも帰投し、3週間後に
もう一度爆撃のために出撃しています。
この出撃についてはアメリカ側の公式な
被害記録はありません。
結果的にこの任務が戦況に大きな影響を
与えることは無く、帰国後に藤田さんは
上官から
「木を一本折っただけではないか」
と叱責されたとのことです。
特攻隊に志願するも終戦
藤田さんはアメリカ本土爆撃作戦の後も
パイロットとして任務を続行し、
1943年には鹿児島海軍航空隊に着任し
教官になります。
若手パイロットの育成をしていましたが
部下が次々と亡くなっていくことに
耐え切れず、自身も特攻隊へと志願を
しましたが、出撃することなく、
戦争は終わりを迎えました。
アメリカ爆撃も含めて藤田さんの人生は
こちらの本にまとめられています。
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政府からの呼び出し
終戦後は藤田さんは地元に帰り、
工場勤めをしていました。
1962年に政府首脳方呼び出され、
アメリカ政府が藤田さんを探していると
言われ、アメリカ行きを命じられます。
戦犯として裁かれるのではと考え、
藤田さんは自決用に日本刀を持って渡米。
しかし、ブルッキングズ市はかつての
敵国の英雄・藤田さんをフェスティバルの
主賓として招待したのでした。
アメリカで大歓迎を受けた藤田さんは
自らの不明を恥じ、日本刀を友情の印
としてブルッキングズ市に寄贈しました。
藤田信雄の戦後は会社経営?
藤田さんは地元に戻ってからは
金物屋を始め、行商などを行い、
最終的には藤田金属という会社にまで
成長させました。
子供の代になり、業績が悪化し会社は
倒産してしまいますが、海軍時代の
教え子のつてで再就職し、そこでも
最終的に取締役になっています。
そして、上のアメリカでの歓待に
感銘を受けた藤田さんは1985年に
ブルッキングスの3人の女子学生を
日本に招待しています。
この時は会社が潰れて大変な時期で、
衣類は勤務先の作業服のみという
ストイックな生活で資金をやりくり
したそうです。
そんなことを知ってか知らずか、
生徒が日本に滞在している際、
ロナルド・レーガン大統領から
星条旗と感謝状を贈られています。
藤田信雄の結婚した嫁や子供、家族の今現在は?
藤田さんは結婚をされており、
子供さんもいました。藤田さん自身は
1997年に他界されていますが、
奥様と子供さんは藤田さんよりも
先にお亡くなりになったようです。
息子さんについては藤田さんの興した
藤田金属を継いだものの、業績悪化で
会社を倒産させてしまっています。
藤田信雄が贈った刀の今現在は?
藤田さんが戦後初めて渡米した時に
切腹を覚悟して持っていった日本刀。
友好の証として寄贈をされていますが
日本人にとって刀は特別な存在です。
特に藤田さんの持っていった日本刀は
先祖代々のものだったのでなおさらです。
「私の魂です」と言って寄贈したとの
ことですが、それほどに受けた歓待に
大きな感銘を受けたのでしょう。
今現在も寄贈した刀はアメリカで
展示されています。
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