永田行夫のナヴォイ劇場建設と桜公園の今現在は?ウズベキスタンの日本人捕虜【Wiki】

こんにちは、ぽこぱぱです。

4月19日放送のフジテレビ系

「奇跡体験!アンビリバボー」では、

桜にまつわるアンビリーバボーな

お話が取り上げられます。

その中でウズベキスタンにいた

ある元日本人捕虜のお話が紹介

されるそうです。

ウズベキスタンの首都・タシケントの

市内には現在1000本もの桜が

植えられているそうですが、

この日本人捕虜「永田行夫」さんと

どんな関係があるのでしょうか?

スポンサードリンク

永田行夫(ながたゆきお)とナボイ劇場の経緯

永田さんは第二次大戦中、「第10夜戦航空部隊」に

所属し、航空機の修理を行っていました。

第二次世界大戦後はソ連の捕虜となり、

タシケントというところで強制労働を

させられていました。

ソ連からの命令は基礎工事のみの建設途中の

オペラハウス「ナヴォイ劇場」の建設でした。

1945年に始まり、革命30週年にあたる

1947年の10月までには完成させなければ

いけないという過酷なものでした。

食料は常に不足、栄養失調にもなり、

南京虫(なんきんむし)に悩まされる

劣悪な環境下でした。

シャワーは月に一度きり、お湯もあまりなく

寒さに凍える日が続きました。

ウズベキスタンに送られた25000人もの

強制労働者は2年で800人程度になりました。

この数字を見ただけでもとてつもなく

過酷だったことが想像できますね。

スポンサードリンク

無事に生きて帰って桜を見たい

そんな劣悪な環境の中でも永田さんは

諦めませんでした。

全員で無事に生きて帰る、そんな目標を

持ち続けたといいます。

また、もう一つ

「生きて日本に帰って、桜を見よう」

そんなことを、ともに働く労働者たちと

語り、作業を行っていました。

ナボイ劇場完成

1947年、永田さん達の努力の結果、

ナヴォイ劇場は予定していた工期を

大幅に短縮し完成しました。

劣悪な環境下で強制労働によって

作られたとは思えぬほどに美しい

ナヴォイ劇場は地上3階建て、地下1階、

1400席を備えた建物です。

細部にまでしっかりと作られ、

施された模様などは職人芸です。

旧ソ連時代にはモスクワ、レニングラード、

キエフのオペラハウスと並び称される、

ロシアの四大劇場の一つとされていました。

スポンサードリンク

ナヴォイ劇場が地震から市民を救う

ナヴォイ劇場完成から約20年後。

1966年4月26日にタシケントに巨大地震が

起こります。マグニチュード8という強烈な

大地震で町は崩壊。

殆どの建物が瓦礫になる中、ナヴォイ劇場は

自身の前とか変わりなくあり続けました。

勤勉な日本人がしっかりと作った建物は

地震にも負けなかったのです。

被災者の避難場所として使われ、

多くの市民の救いとなりました。

タシケントの桜公園

このような背景があり、ウズベキスタンは

独立後、日本人墓地の整備を積極的に

行います。また、タシケントの当時の

市長からは素敵な提案が上がりました。

タシケントの中央公園に桜を植えたい

というものでした。

1945年から続いた強制労働中、

皆が望んだ桜。それを植えようというのです。

現在ウズベキスタンの日本人墓地と

中央公園には、 1900本もの桜の木が植えられ、

毎年美しい花を咲かせているそうです。

スポンサードリンク

永田行夫のその後

永田さんは帰国後は”第4ラーゲル会”

というナヴォイ劇場建設を

共に行なった仲間での会を結成しました。

仕事面では岡村製作所に就職し、

役員を務めるまでになりました。

お子様も2人いらっしゃったようです。

2010年にこの世を去られています。

まとめ

強制労働という過酷な状況でも

しっかりとした仕事をし、

生きて帰った永田行夫さん。

後世に日本の恥となるような建築は

作らない。

その上で、全員が元気に帰国すること。

そんな強い意志でナヴォイ劇場を

建設したとのことです。

どんな状況下でも誇りを持って

仕事をまっとうする大和魂。

見習いたいものですね。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする